2023年4月14日金曜日

131章-6

 沅蘭や任六、みんなが程鳳台を取り囲んで話している。程鳳台はおしゃべりをしながら、任五の帳簿を見ていて、商細蕊と二人だけで話す機会はなかった。商細蕊も話す暇がなかった。元宝領の旗袍に馬面裙、頭には宝石のついた簪をいくつもつけて、彼は黙戯していた。


少し休んで程鳳台を見、少し休んで口の中で何やらつぶやいた。次第に、程鳳台を見る時間が多くなり、つぶやく時間は減った。もう少しすると、程鳳台を見たままつぶやくようになった。


任六は程鳳台に、商細蕊を見るよう目配せした。


程鳳台は言った。「商老板、私に何の呪いをかけているんだ?」


十九が口をはさんだ。「夫婦和合の呪文よね」


沅蘭が言った。「やめなさいよ、班主が赤くなってるじゃないの」


商細蕊は化粧をしていて、顔が赤くなったかどうかは分からない。赤くなったのかもしれない。商細蕊はつぶやくのをやめて程鳳台に向かって微笑み、程鳳台は商細蕊を見つめて微笑んだ。二人はしばらくお互いに馬鹿みたいに笑い合い、商細蕊は言った。「いいお茶が取ってあるよ。飲んで行って」


程鳳台は言った。「少ししか飲めないのが残念だ。すぐ出発だから」


話している間に、楽屋では上演の準備が始まり、舞台を片付け出した。みんな忙しく彼らの周りを歩き回っている。まるで色鮮やかな緞帳が動いているようで、二人の静けさが際立った。


程鳳台は突然手を伸ばして商細蕊の顔を触りたくなったが、商細蕊は化粧をしていて触ると落ちてしまう。それでかわりに手を握ることにした。この手は細長くて魅力的に見えるが、手の中に握ると、骨節が硬い。


程鳳台は何か別のものが手に当たるのに気づき、顔を近づけて見ると、それはずっと前に程鳳台が彼に贈った大きなダイヤモンドの指輪だった。


彼は指輪を指でなぞって言った。「商老板、元気で。私は行くよ」


商細蕊の大きな目は涼やかで、中には何の感情もなかった。程鳳台は商細蕊が舞台の前にはこのような魂の抜けた状態になることを知っていた。最後にもう一度彼の手を握って、放そうとした時、商細蕊は手に力をいれて、きつく握ってきた。


程鳳台の心は躍った。「商老板?」


商細蕊は無表情で彼を見ていた。握っていた手は、長い間たったあと放した。程鳳台の心はゆっくりと元の場所に戻り、帽子を被って去った。


劇場内では観客たちがひっそりとささやく声が聞こえた。商細蕊の耳が悪くなったために、観客たちは長年身につけてきた観劇の習慣を変えたのだった。程鳳台がボックス席に座ると、テーブルの上には商細蕊が特別に用意したよいお茶が置かれていて、まわりは優しい静けさに包まれていた。


幕が上がり、小鳳仙が舞台に現れた。小鳳仙は娼妓として暮らしているが、心の中には誠実さと強さを持っている。その誠実さと強さによって、蔡鍔に出会う。


商細蕊はゆっくりと窓辺に歩いて来ると、扇を動かしながら蔡鍔を見て歌う。


佳公子郁郁上楼台

眉上新愁一笑开

似松风新月入窗来


歌い終わってゆっくりと扇を下ろすと、芙蓉のような顔が現れた。蔡鍔は一目で恋に落ちる。


程鳳台は商細蕊を見ながら、目の前が曇ってきた。それは今やって来ようとしている離別の悲しみではなく、むしろ喜びのせいだった。舞台の上の商細蕊は本当に美しかった。花は泥の中に咲き、雲は天上に浮かぶ。それぞれに、妥当で適切な、安定した場所がある。


舞台上の小鳳仙と蔡鍔の芝居は真に迫り、程鳳台は夢中になって、芝居のほとんどを見てしまった。


葛さんが腰を曲げてそっと促した。「二旦那、行きましょう。汽車は待ってくれませんよ」


程鳳台はハッとして、頭を下げてため息をつくと、「ああ、行こう」と言って杖を取り、もう階下を振り返らなかった。小鳳仙と蔡鍔の別れの場面を見たくなかった。今日という日には辛すぎる。今、彼の耳は綿々と響く商細蕊の歌声で満たされ、その歌声が彼を送り出してくれる。最高の別れだ。




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