2023年3月31日金曜日

131章-2

 商細蕊が一日あまりの昏睡から目を醒ますと、部屋は紅い光にあふれていた。喉が焼けるように痛み、唇は乾き、今すぐおしっこがしたくてたまらなかった。商細蕊は起き出して、厠をあちこち探し回った。


そこへ小来が茶杯を洗うお湯を持って現れ、微笑んで言った。「蕊兄さんも目が醒めた!」商細蕊は頭がくらくらしていて、「も」の意味が分からなかった。「清源寺の和尚さんが大金を払って読経を頼みに来るわけね。蕊兄さんはほんと神だわ!程の二旦那は本当に目を醒ましたのよ!」


商細蕊は息を呑み、目を見開いて身震いすると、熱い尿で両手を濡らした。


程鳳台は商細蕊よりも半日早く目を醒ました。程家の人々は沸きたち、春節の時のように赤い提灯を吊るして、使用人たちにごちそうを振る舞った。


商細蕊は静かに程鳳台の部屋の窓の下へ行き、中を覗き込んだ。


二奶奶がベッドの縁に座り、程鳳台にお粥を食べさせているのが見えた。子供達がその隣に立ち、乳母が鳳乙を抱いて、父親に話しかけるよう促していた。程鳳台は片手を三男坊の頭に置いて、弱々しくお粥を食べていた。彼の顔には大病が癒えたばかりの憔悴とぼんやりとした表情があった。


二奶奶は言った。「大丈夫、目が醒めたんだからよくなるわ。まず何日かは薄いものを食べて、乾いたものが食べられるようになったら、ベッドから下りられる日も遠くないでしょう」


三男坊は言った。「パパはごはんを食べないとだめだよ。水だけじゃだめだよ。水しか飲まないのはお魚だよ」程鳳台は三男坊の髪を撫でて微笑んだ。商細蕊も部屋の外で一緒に微笑んだ。部屋の中の親密なやりとりをしばらく見たあと、商細蕊は行ってしまった。


商細蕊と小来は程家をぐるりと歩いて回った。何人もの使用人が行き来していたが、二人に挨拶したり話しかけたりする者はいなかった。まるで二人を見たこともないかのように、彼らを避けて歩いて行く。


商細蕊は夢を見ているように感じた。この紅い光が溢れる美しい夢の中で、二旦那は本当に生き返った。


紅い光の覆いから出ると池に行き当たった。秋の月が水面に映っていた。月の白と夜の黒、二色の世界はむしろ心を落ち着かせた。商細蕊はしゃがんで池の冷たい水をすくって顔にかけ、それから口に含んで、仰向いてうがいをすると、岸辺に吐き出した。


小来はこの子供のころと変わらない粗野な振る舞いを見て言った。「蕊兄さん、二旦那が目を醒ましたのに、なぜ不機嫌なの?」


商細蕊は濡れた顔で「なんでもない」と言った。


小来は静かに考えて、今見た程鳳台と家族の仲睦まじい様子のせいで悲しいのに違いないと考えた。しかし、このような悲しみをどうしたらいいのだろうか。これは彼ら二人が始まった時から決まっていたことだ。


しかし小来にはひとつだけ方法があった。

「蕊兄さん、私が結婚して兄さんに子どもを産んであげる」


商細蕊は「私はそんなもの欲しくない」と言った。出した声がしわがれていて自分で驚いたが、真面目に言い継いだ。「お前は義兄さんを待て。義兄さんは大事な仕事が終わったら、戻ってきてお前を娶るはずだ」


彼は服の裾を持ち上げて手と顔を拭くと、まっすぐ大門を出て行った。



2023年3月27日月曜日

131章-1

 程家の長男は14歳で、学校でずっとまじめに勉強してきた。この日より前に最も大きな声を出したのは、音楽の授業で歌った時だった。それが今、家族全員の前で猿のように屋根に上り、決められた方向に向かって父の名前を叫んでいる。


人々は、彼が十分に大声ではっきりと叫ばないことが不満で、彼を指さしてひっきりなしに指示したり催促したりした。彼は恥ずかしくて顔が赤くなり、目に涙を浮かべた。叫べば叫ぶほど、声にならなくなった。


「これは何をしているの?」と商細蕊は聞いた。誰も答えなかったが、最終的に彼は自分で理解した。「程鳳台の魂を探しているのか」そして「この子供はだめだ。下りてこい。私が行く」と言った。


そして本当に梯子を上り始めた。二奶奶は止めるべきかどうか迷って法師に聞いたが、法師は長い髭をなでているばかりで何も言わない。商細蕊はあっという間に屋根に上って、長男を脇に抱えて下に下ろしてしまった。


屋根に立って見下ろすと、波打つ灰色の瓦屋根と路地がずっと続いている。商細蕊は深く息を吸って、北に向かって程鳳台の名前を叫んだ。彼の声はとても大きく、程家の人々は、強い風が正面から襲ってきたように感じた。


二声目には、通りの先の小来が仕事を置いてドアを開けた。三声、四声目になると、近所の人たちは家の中に留まっていられず、外に出て空を仰いだ。天上の声が伝えるのは、一人の人の名前だった。


しばらくすると、人々は喉が少し痛いと感じるようになった。屋根の上の人の代わりに、息が切れてきた。こんな叫び方があるだろうか。命を投げ出さんばかりに喉を引っ張り、肺は破裂しそうだ。


芝居の分かる范漣は、少し不安になって、二奶奶にささやいた。「そろそろいいだろ。下りて来るように言ってよ。これ以上叫んだら喉が耐えられない」しかし二奶奶は何も言わない。范漣は上を見上げて叫んだ。「もういいよ、商老板、十分だ!下りてきて!」范漣の声は商細蕊の叫びにかき消された。


小来は商細蕊の声を追って程家まで走り、門番を突破して内院に駆け込んだ。商細蕊が屋根の上に立っているのを見ると、手を振って叫んだ。「蕊兄さん!降りてきて!叫ぶのをやめて!」何度も叫んだが聞かない。小来は狂ったように、涙を流して二奶奶に向かって跪いた。「奥様、お願いです。商老板を止めてください。喉の商売なんです。こんな叫び方をしたら、喉が耐えられません」


二奶奶は後ずさりして、「私がやらせたわけじゃないわ」と言った。


小来は額を地面にこすりつけて言った。「商老板を許してください。もう二度と二旦那に手を出したりしません。程家から遠く離れたところで隠れて暮らします。慈悲深い奥様!どうか商老板をお助けください」


二奶奶は慌てて、「あなた!なぜそんな話になるの!」そして范漣に「行って!彼を降ろさせて」と言いつけた。


屋根の上で人を引っ張って行くのは言うほど簡単ではない。何人かの護院が腕まくりをして取りかかろうとしたとき、商細蕊は突然口を覆い、頭を下げて何回か咳をした。それからぼんやりと太陽が沈むのを見た。夕暮れの寒風の中で、気管がひきつるように痛む。


「もうどうしようもない。二旦那、私にはどうしようもない」彼は倒れた。隣にいた護院が捕まえようと服を掴んだが、引っ張った手の中で服は重みに耐えられずに裂け、彼は屋根から転がり落ちた。幸い地上の護院が手を伸ばして受け止めたが、さもなければ彼の頭は割れていただろう。



2023年3月25日土曜日

130章-2

 寒くなってくると、程鳳台は微熱を出した。微熱は高熱になり、痙攣を起こし、脚の傷は化膿して潰瘍となり、骨がいくつか見えた。方医師とイギリス人医師は緊急の診察をして、脚を切断するか話し合った。

二奶奶はこれを聞くと「鋸で脚を切ってどうなるの!もしそれでよくならなかったら、欠けた体で死なせることになる」と嫌がった。商細蕊は違う意見だった。「切るなら切ればいい、生き返る望みがあるなら。脚がないぐらい何だ。あなたは彼がいらない私は彼がほしい!」

これをたくさんの医療関係者や使用人、親戚友人の前で言ったものだから、二奶奶は顔色をなくし、それから何日も商細蕊を相手にしなかった。商細蕊は相変わらず商細蕊のままで、少しも冷遇されているとは思っていなかった。


程鳳台の怪我は手の施しようがなく、感染を繰り返していて、ペニシリンだけが命を救う手立てだった。戦争は1年以上続いており、ペニシリンは既に禁止薬になっていた。病院に在庫がないのは言うに及ばず、闇市でも買うのが難しかった。


商細蕊は何ヶ月か前、延安方面に大量のペニシリンを送ったことを思い出し、死ぬほど苦しくなった。みすみす程鳳台が生き延びる機会を逃したと感じた。苦痛が極限に達し、商細蕊は初めて程鳳台のもとを離れ、走って行って冲喜の棺の中に横たわった。


使用人がのぞき込むと、商細蕊は棺の蓋を閉めてほしいと頼んだ。使用人は怖くなって、二奶奶を呼びに走って行った。


二奶奶はやって来ると厳しい口調で言った。「あなたは私が十分に忙しくないと思っているの?家の中が十分乱れてないと?何を狂っているのよ!」


商細蕊は言った。「ちょっと蓋を閉めてみて」


二奶奶が怒りで死にそうになっているところに程美心がやって来た。彼女は商細蕊が何日も大人しくしていられるわけがないと知っていた。使用人たちに目配せして「商老板は試してみたいそうよ。あなたたち、早く手伝ってあげなさい」と言った。


使用人たちも生きている人間が棺に入って蓋をされるのを見たことがなかったが、主人に言われては従うしかなかった。4人で板の角を持ち、きっちりと重い蓋を閉めた。


商細蕊は望み通り狭い暗闇の中で、右を見て左を見て、最後に目を閉じた。彼は前に、万一程鳳台が死んだら自分が家族の面倒をみると二奶奶に言ったが、今は後悔していた。彼は少しも面倒をみたくなどなかった。程鳳台がいなければ、世界はドアも窓も開かない狭い部屋だった。生も死もなく、時間は永遠に尽きることはなく、程鳳台が気にかけていた人々も、もはや存在しなかった。


程美心は二奶奶を見て、「いっそのこと、釘を打ってしまえばいいのよ」と言った。



2023年3月24日金曜日

130章-1

 商細蕊は庭園を半時間以上探ったあと、手に伏せた茶杯を持って戻って来た。中には一匹の秋後のコオロギが、老いた手脚で力なく鳴いていた。彼は顔を拭いてベッドに上がり、程鳳台の耳元に茶杯を置くと、自分も枕のそばにうつ伏せになって面白そうにコオロギの鳴き声を聞いた。


二奶奶は思った。「コオロギで遊んでる。まだ子供ね!」知らないうちに声が柔らかくなった。「二旦那の邪魔をしないで」


商細蕊は言った。「目を覚ましたら、ちょうどいいのでは?」


二奶奶は言葉がなかった。


商細蕊は程鳳台がコオロギを欲しがっていたのをずっと覚えていた。まだ彼にコオロギ一匹の借りがあった。残念ながらこのコオロギはよくない。程鳳台の目が覚めたら、もっといいのをあげよう。だが、程鳳台はいつになったら目を覚ますのか?


方医師ははっきり言わないが、商細蕊と二奶奶には分かった。この傷が長引くほど、程鳳台が目を醒ます確率は低くなる。


コオロギの鳴き声を聞いて、商細蕊の目は赤くなった。茶杯の底を指で叩いてコオロギをからかうたびに、ゆっくりと涙がたまり、目にいっぱいになって震え、瞬きをしたらすぐにこぼれ落ちそうだった。二奶奶はそれを見てどうしようもなく辛い気持ちになった。今に至るまで、自分たち二人が同じ悲しみを抱えているとは思いもしなかったのだ。

2023年3月23日木曜日

129章

 秋が深まって、范漣も毎日は来なくなった。程美心は子供たちを連れて豊台へ帰り、四姨太太も、子供達と出産を控えた蒋梦萍の世話があり、二奶奶のそばにずっといることはできなかった。そうして最後に二奶奶のそばに残ったのは、商細蕊だった。


程鳳台の経口補湯は効果があり、栄養水の使用は明らかに減った。毎日二奶奶がしなくてはならないことは、薬湯の入った碗をベッドの端に置くことだった。商細蕊がそれをベッドの端から持っていって程鳳台に飲ませる。


そして今回は何口飲んだか二奶奶に告げて空の碗を置く。二奶奶はそれを持っていってまた薬湯を注ぎ足す。この過程で、二人は決して直接手渡すことはなかった。


二奶奶は商細蕊と程鳳台の唇が接するのを何度となく見たが、おかしなことに、心には何の気まずさもなかった。それは程鳳台が彼女の唇にキスしたことがなかったからかもしれない。商細蕊があまりにも男だったからかもしれない。


二奶奶は理性では、商細蕊が娼妓同様の卑しい人物だと分かっていたが、彼の話し方や何かをするようすは、彼女の心の中に長い間留まっていた商細蕊とは結びつかなかった。

126章-2

 程鳳台は気になって、大事なものを取りに行くと言って車を锣鼓巷に寄らせた。商細蕊が家にいるかどうかはその時は分からなかった。長い間門を叩いたが、誰も出て来ず、日本人たちが車の中から程鳳台を急かし続けたので、出発せざるを得なかった。


程鳳台が車に乗り込むと同時に商細蕊が帰って来た。しかし程鳳台を見たわけではなく、車の後ろ姿が目に入っただけだった。それは程鳳台の車の後ろ姿でさえなかったが、商細蕊はその直感で、程鳳台が中にいると感じ、すぐさま小来をおいて飛び出して、街の中をずっと追いかけていった。


真夜中に、日本人が程鳳台を連れて秘密の任務を遂行しようというところに、後ろから人がしつこく追いかけてくる。これはどう考えても怪しい。運転手は車を停め、他の便衣兵は銃に弾をこめた。程鳳台が振り向くと、商細蕊が窓の外で大きく喘ぎながら腹這いになっていた。慌てて「大丈夫だ!私の友達だ」と叫んだ。


便衣兵は静かに銃を収めたが、商細蕊はすでに見てしまい、たちまち不安になって窓を叩いた。「彼らは誰?どこへ行くの?」


程鳳台は微笑みながら車を下りた。「この間言っただろう。荷物に問題があったんだ。10日か半月で戻ってくる。緊急だと思わなかったから、夜道を急いでるんだ。帰ったら話すよ」


商細蕊は車の中の日本人を警戒して見た。「大丈夫?私も一緒に行こうか?」


「君が行ってどうする。私たちが持って来た食料は、君が道中で食べるのにも足りない」


商細蕊が言い返して笑うのを期待したが、結局二人とも無言で、街灯の光を借りてお互いを見つめ合った。しばらくして、日本人がまた急かしてきた。商細蕊は立ち去りがたく、イライラして車の屋根を拳で叩いた。


程鳳台は顔をしかめて、商細蕊の手を取った。「癇癪を起こすな。医者は何て言った?耳がほしくないのか」

そして彼の頬に触れ、額と額を合わせてそっと言った。「君は家にいて、ちゃんと薬を飲むんだ」


程鳳台は車に戻った。バックミラーの中では商細蕊が路地の入り口に立ち、幽霊のような姿で悲しそうに程鳳台が去っていくのを見つめていた。


この年の末、二人は出会って5年になった。

126章-1

 空が明るくなって、外では小来が起きて掃除をしたり顔を洗ったりしていた。鳥が鳴き、程鳳台が新しく植えた梅の木に光が当たって、寝室の窓に影が落ちた。商細蕊は程鳳台の腕を枕に、帳に飾ってあった面を被って、その二つの穴から梅の木の影を見ていた。


彼は寧九郎がかつて、庭の梅の木は剪定しなくていいと言っていたのを思い出した。伸びて暴れたものこそがいい。そうでなければ、毎日、以前と同じ影を見て、昔を思い出して悲しくなるから。


商細蕊はそれを聞いたとき何も感じなかったが、今、突然理解した。程鳳台は妻子を連れて行ってしまう。そうして、彼は毎日窓に梅の木の影が落ちるのを見る。そのときが来たら、悲しいだろうか。

125章

 それは商細蕊の身売り証だった。商細蕊の叔父と名乗る人身売買業者の大きな拇印の横に、小さな紅い点があった。幼い商細蕊が小さな手を掴まれて押したものだった。年月が経って指紋は焼けて紅い痣になり、楊貴妃の眉間の点のようだった。


程鳳台は「これもくれないか。珍しい」と言った。

商細蕊は程鳳台を見て言った。「これのどこが珍しいんだ。上海灘のお坊ちゃんは、何も見たことないんだな」

程鳳台は何度も何度も見返した。


「もう無効だよ。持ってても無駄だ」と商細蕊は言った。


「じゃあ有効なのをもう一度書いてくれ」と程鳳台はからかった。

商細蕊はうなずいて、「いいよ。もう一度書こう」と言うと、印章箱を開けて朱肉を指につけ、手を伸ばして程鳳台の頬に真っ赤な指紋を押した。


冗談のはずだった。しかし、何の理由もなく、商細蕊の指が程鳳台の顔に触れたとき、二人の心が同時に震えた。心の隙間から全身に戦慄が走った。紅い指紋は商細蕊の指先から程鳳台の魂に落ちた血のようだった。


二人は呆然と見つめ合った。商細蕊は悪い予感がして、慌てて手をひっこめた。


「察察児の行方が分かったから、もう少し待って、遅くとも年末までには、行かなくちゃならない」と程鳳台は言った。


「どこへ?」商細蕊は尋ねた。


「まず上海に帰る。それから香港、もしかしたら直接イギリスへ行くかも知れない」


「いつ戻るの?」


「戦争が終わったら、帰ってくる」


商細蕊はうなずいた。彼にはとっくに覚悟ができていた。戦争が始まると、まわりの金持ちは家も土地も売って逃げていった。程鳳台が命をかけて付き添う覚悟があったとしても、あの大家族は彼から離れられない。


程鳳台は商細蕊が落ち込んでいるのを感じて、思わず笑いながら言った。「それとも、君も私と一緒に行くか?地方巡業だ」


この問いが商細蕊を爆発させた。手の中の玉器を床に投げつけ、床いっぱいの金銀財宝を指差して言った。「それとも、これをみんなあんたにやるから、ここに残るか?」そう言った時、彼の息は荒く、顔は真っ青だった。程鳳台は何も言えなかった。


商細蕊は部屋を何周も歩き回り、財宝を蹴散らし、程鳳台の肩を蹴った。仰向けに倒れた程鳳台の上に飛び乗って、襟を掴んだ。目が赤くなっていた。「私の持ってるものは全部やるから、私とここに残るか?」


程鳳台は彼の乱暴を怒る気になれず、むしろ心の痛みでいっぱいになって、腕を彼の首に回して引き寄せた。二人の額がぶつかった。程鳳台は微笑んで言った。「日本人から隠れるだけだ。戻って来ないわけじゃない」


商細蕊の目から涙がこぼれた。


106章

 ある少女が商細蕊の夜の芝居を見て家に帰る途中、二人の日本兵に路地へ引きずり込まれた。少女はこの出来事から立ち直れず、首を吊った。髪をきれいに整え、きちんとした服に着替え、胸には商細蕊の芝居の半券と写真を抱いていた。


日本兵を罰することが出来ない人々の批判の矛先は、この時勢に芝居をかけている梨園と商細蕊に向いた。


ある日少女の母親が楽屋へ乗り込んで来た。商細蕊を見ると飛びかからんばかりの勢いで、娘はお前に夢中になって酷い目にあった、娘が長い間恋に迷っていたことをお前は知っていたのかと責め、商細蕊を殴った。商細蕊は何も言えず、ただ驚いて、呆然とした。冷や汗が出て、心臓が激しく打ち、指先が冷たくなった。


程鳳台は上海の紡績工場が爆撃の被害を受けたため忙しく、何日も家に帰らないこともあった。帰っても商細蕊に会わないこともあった。この日帰ってくると、家政婦の趙さんが2階を指差して「商老板は具合が悪そうですよ。早々に帰ってきて、夕食も食べないんですよ」と言った。


事件のことを聞いた程鳳台は、2階へ上がり、服を脱いでベッドに入ると、後ろから商細蕊を抱きしめた。商細蕊は振り返り、額が程鳳台の鼻にぶつかった。商細蕊は目に涙を浮かべてため息をついた。今回また多くの侮辱を受けたが、それは今までにもあったことで、大したことではない。しかし人の命の重みで、心細く、気持ちが落ち込み、いてもたってもいられなかった。


程鳳台は彼の髪を撫でて、「世界が悪いせいだ。君のせいじゃない」と言った。


「じゃあなんであの子は死にたいと思ったの」と商細蕊は言った。「目を閉じるとあの子が私のところに来るのが見えるんだ。亡霊につきまとわれてる。こんなのは不当だ。彼女にとっていい結果にはならない」


「彼女にとっていい結果って何だろうね」と程鳳台は言った。


商細蕊はしばらく沈黙したあと、突然声をあげた。「私が彼女を娶ればいいんだ!もし私がこの事件のことをもっと早く知って、彼女を娶ってたら、死にたいなんて思っただろうか」


程鳳台は呆れたが、この晩商細蕊が言ったことは、冗談でもなんでもなかった。彼は本当に少女の両親に会って、彼女の位牌と結婚すると伝えようとした。幸い杜七と钮白文がすぐにそれを聞きつけて止めた。商細蕊はひどく叱られて首を垂れた。


ある日深夜に程鳳台が帰って来ると、辻で二人の人間がしゃがんで火を焚いていた。葛さんが驚いて、「ニ旦那、あれは商老板じゃないですか」と言った。

程鳳台が眠い目をこすって見ると、そこで商細蕊と小来が紙銭を燃やしていた。程鳳台は近づいて行って、声を落として「商老板、何をしてるんだ?」と聞いた。商細蕊は答えなかった。


程鳳台は黙って、紙が燃えるのをしばらく見ていた。その中に、金銀で模様の描かれた赤い包みがあり、上面に大きな文字で「商門董氏(商家に嫁いだ董家の娘)魂下受用 夫商細蕊敬奉」と書かれていた。この董氏というのは、この前死んだ娘のことに違いなかった。商細蕊は我意を貫き、死者の夫になったのだった。


程鳳台は商細蕊の腕をつかんで家に引きずって行った。「商細蕊!君は本当に頭がおかしい!」


商細蕊は刺激や圧力を感じると、少しぼんやりする。この数日も落ち込んでいて、程鳳台に引きずられるままに家に入り、一言も言わずに顔を洗ってベッドに入った。程鳳台はベッドに横たわってもまだ悪態をついていて、医者に行って神経症の薬を出してもらうと言った。


しばらく罵っていたが、反応はなかった。振り返ると、商細蕊は肩を震わせていた。彼は身を乗り出して商細蕊が泣いているのを見た。商細蕊は頑固で、どんなに悔しくてもめったに泣かない。しかしこの時は目も鼻も赤くして涙がとめどなく溢れてきた。


彼は泣き声を抑えて「ニ旦那」と叫んだ。商細蕊の叫びを聞いて程鳳台の胸は締めつけられ、目頭が熱くなった。


「ニ旦那、私が彼女を殺したんだと思う?あの日私の芝居を見に来なければよかったのに!」


105章-2

 話の流れを利用して、程鳳台は聞いた。「商老板は行くのか?戦争のない場所で芝居をしたいと思う?」


商細蕊は突然ものの分かった人間になり、はっきりとした言葉で言った。


「北平は五朝の帝都であり龍脈のあるところだ。ここを守りきれない日が来たら、どこへ行っても無駄だろう。国中が次々と陥落して、戦争のない場所などなくなる。外国に逃げることもできる?西洋の鬼たちに京劇を歌って聞かせるのか?」


商細蕊は手を振った。「ばかばかしい。私は行かない!商人は金を失うのを恐れるし、役人は命を失うのを恐れるだろうが、私が何を恐れる?日本人がくだらないことで騒ぎ立てて、芸人の私に嫌がらせをすること?せいぜい税金を追加で払わされるぐらいだろ!」


商細蕊は知らなかったが、この態度は二奶奶と大同小異だった。この日程鳳台は急を知らせるために家に帰ったが、二奶奶は内部屋の門まで彼を入れなかった。そして話が終わると、彼を追い払った。商細蕊も二奶奶も北方で育ち、難民や死者を多く見てきて、昨日の騒ぎなど恐れてはいなかった。




105章-1

 程美心は程鳳台の手を固く握って膝の上に置いた。

「姉さんの言うことを聞いて。目の前で、お祭りが戦争に変わろうとしているのよ。外で遊ぶのはやめなさい。あの役者とはきっぱり手を切って、早く家に帰るの。子供のことは、私が説得してあげるから」


程鳳台は意に介さない様子で微笑んで、美心をからかおうとしたが、美心はそれを遮った。

「あの役者があなたに対して本気だとか欺いてるとか、そんな話をする気はないわ。考えてごらんなさい。将来戦争になって、ここを去る日が来る。上海に戻るか、イギリスに行くか。彼が今の名声も地位も投げうって、あなたと行くと思う?芝居のためなら命も捨てる人よ。それとも妻子を引きずって、一生彼と北平で過ごすつもり?」


美心の話は、程鳳台が心の中でもう80回も考えたことだった。心が砕けるほど考えて、それでも答えは出ない。その時が来たら決断するしかなかった。

98章-2

 商細蕊は食事会で笑いすぎて階段から落ち、膝を打った。膝は青黒くなって皮膚が剥け、見るからに痛そうだった。商細蕊は車で医者に連れて行かれ、夜になって程鳳台に背負われて帰ってきた。


ベッドに横たわって片手でビスケットを口に入れ、片手で程鳳台の腰を抱いて、「痛くて死にそうだよ、二旦那… 膝が伸びない。私は障害者になるんだ」と言ってビスケットを掴み、ガシガシと噛んだ。


商細蕊の家は古く、電気や水を使うのも不便で、門の外に車を停めると通りを塞いでしまう。膝を傷めて、外出には車の方が便利なので、東交民巷の小公館(愛玉の家)に移ってはどうかと程鳳台が提案した。電話も大きな浴槽もあり、劇場へも近い。発声練習しても近所から文句を言われない。


商細蕊の家はもともとは寧九郎のものだったこともあり、程鳳台は商細蕊が引越しを嫌がるのではないかと思っていた。しかし商細蕊はあっさり受け入れ、「荷造りが面倒くさいから、荷造りしてくれるなら引っ越すよ」と言った。


小来は商細蕊の膝の薬を替えながらつぶやいた。「あの人が身ひとつで家を出て来たなんて、信じられませんよ。大の男が、財産がまったくないなんてありえます?小公館に引越したら、本当にあの人に囲われてる妾みたいじゃないですか。人が知ったら何て言うか」


程鳳台がいないと、商細蕊は鼻歌を歌うのをやめ、目は冷たく、短気になった。

「今さら人が何を言うか、私が気にすると思うのか?」

それはそうだったので、小来は黙っていた。


商細蕊は秘密を打ち明けるように、得意気に言った。

「彼の口のうまさに騙されるな。実際のところ、彼は役立たずだ。小白顔なんだ。頼るところもなく私のところにやってきた。これからずっと彼を支えていかなきゃならない。彼の小洋館に住んだからって何だ!あれは彼の嫁荷だ!」




99章

 程鳳台の車は上海時代からもう78年乗っていて、数年前には陸坊ちゃん(取引先の孫)の車に当てたこともある。今回のこと(また嫉妬に狂って乱暴な運転をし、石柱にぶつけた)で大穴があき、さすがに新車がほしいと思った。商細蕊は気はきかないが、程鳳台が口に出して言えば、彼を満足させようと尽力する。すぐに銀行からお金を引き出し、最新型の車を注文した。


察察児の私立の寄宿学校も大きな出費だった。


曽愛玉は程鳳台が夢に見ていた女の子を産んだが、約束の10万元は商細蕊が出した。二人が暮らし始めてひと月足らずの間に、商細蕊の蓄えの大半が消えてしまった。


商細蕊は何も言わなかったが、心の中では少し心配で、荷が重いと感じていた。程鳳台はよく遊びよく使い、まさに底なしの穴だった。


商細蕊がお金を動かせば、当然小来には隠せない。二人は一度お金のことで言い争いをした。小来がどんなに脅しても、商細蕊の彼の家族を養う決意を揺るがすことは出来ず、小来は本当に歯痒く感じた。




98章-1

 商細蕊は思い立って北平中の親交のある同僚たちを六国飯店に招き、酒と西洋料理をふるまった。多くの役者たちが集まり、みんなこれはなにかおめでたい発表があるのだろうと考えた。钮白文が商細蕊に酒を注ぎに来て、「今日は盛況ですね。何かお話があるんですか?何でも言ってください」と言った。


商細蕊はグラスを持って立ち上がり、真面目に挨拶をした。

「本当なら年内にこのような場を設けるべきでしたが、外地に行っており遅くなりました。今日はみなさんにお集まりいただき、お礼申し上げます。いつもお世話になり、感謝しています」


多くの人は、商細蕊が梨園会館でのことを言っているのは分かっていた。あの時、商細蕊のために立ち上がる人はほとんどいなかったが、追い討ちをかけるようなことをしたわけでもない。しかし今は無事災難を切り抜けたからお礼を言うというのは、遠慮しすぎというもので、みんな恐縮して黙ってしまった。


商細蕊は続けて言った。「钮さんからいつも、私は大の男なのに小来のような女の子に鞄持ちをさせて話にならないと言われていました。小来も成長し、みなさんとの行き来も不便になりました。


それで、特にお願いして、程の二旦那、程鳳台に私のマネージャーになってもらうことになりました。この機会にお見知りおきいただきたく、皆様、どうぞよろしくお願いいたします」


期せずして全員が、突然悟ったような曖昧な表情を浮かべて、微笑んだ。二人の噂は長い間街中皆の知るところだったが、始めは誰も信じていなかった。程鳳台は男色ではないと知っていたからだ。しかし時が経ち、今でも二人は一緒に出たり入ったりしていて、愛し合っている。皆信じられなかった。


彼らは程鳳台が夢中だとは言わず、商細蕊の色事の手管に感心した。財産もあり妻子もいる、程の二旦那を近臣に収めるとは、並の役者にできることではない。


程鳳台が皆と乾杯し、礼儀正しく話している傍らで商細蕊は笑っている。まるで結婚したばかりの夫婦が披露宴で賓客をもてなしているようだった。食事会は喜びと笑いに溢れていた。


钮白文は商細蕊と乾杯し、「商老板が願いを叶えたこと、お祝いします」と囁いた。商細蕊はグラスの酒を飲み干し、真っ赤になった。




97章

 程鳳台は、曽愛玉を連れて行った病院で蒋夢萍に目撃され、子供が生まれることを二奶奶に知られる。二奶奶はショックを受け、范漣の子だと説明されても信じない。程美心に「気持ちが落ち着くまでしばらく離れて暮らしたら」と言われ、程鳳台は数日范漣の家に行くと告げる。


二奶奶は二旦那を出て行かせたくなくて、「出て行くなら印鑑を置いて行って。程家の財産は私の持参金が生んだものなのよ」と叫ぶ。

この言葉は程鳳台を深く傷つけ、印鑑も小切手帳も置いて、荷物をまとめ、察察児を連れて出て行く。行き先は商細蕊の家。




程鳳台が家を出てきたと知った商細蕊は、喜びで狂ったように大笑いしながら程鳳台の背中に飛びついた。手に持っていた歯ブラシとコップを置く暇もなく首にしがみつき、水がこぼれて程鳳台のシャツを濡らした。こんなに幸せそうな彼を程鳳台は見たことがなかった。商細蕊は笑いが止まらず、近所の犬に吠えられた。




商細蕊は疲れていたが、もうまったく眠くなくなって、ベッドの端に座って靴下を脱ぎながら俗っぽい歌を口ずさんでいた。程鳳台が入ってくると、自分の隣を手で叩いて座るよう促した。「どうやって追い出されたの?殴った?どうして?早く話して!」喜色満面で、大きな祝い事について尋ねているかのようだった。


「少しは空気が読めないのか。私は全然嬉しくない。目の前で得意そうな顔をするのはやめろ」

商細蕊は口の端が耳に届くほど笑って、目は弓形になり、明るく喜びに満ちて、「無理!我慢できない」と言った。


程鳳台は商細蕊の尻を蹴って「二旦那に足湯を持って来い。気分がよくなったら話してやる」と言うと、商細蕊は急いで足湯の桶と湯を持ってきた。


程鳳台はゆっくり話し始め、商細蕊は興味深々で聞き、頭を振って、喜んで、拳を擦って、最後に言った。「『あの誰か』(梦萍のこと)が告げ口したのか。いつも人の家の事に首を突っ込んで。あいつが口を出すんじゃ、もうあなたと二奶奶は二度と仲直りできないね」程鳳台は一層憂鬱になった。


「でもあなたは女に頼って事業を興した小白顔(ジゴロ)だろ。二奶奶は濡れ衣を着せたわけじゃない。なんで本気で怒ってるの?」

程鳳台は苛立ち、足拭きで商細蕊の腕を叩いた。商細蕊はあまりにも幸せだったので、叩かれても気にならなかった。


程鳳台は冷笑した。「まだ君に食わせてもらってるわけじゃないのに、私を小白顔呼ばわりするな」


商細蕊は真面目に、「これからは私が食わせるから、私の小白顔になればいいよ」と言った。


「私は金喰いだぞ。西洋の一流品ばかり買うし、妹を学校に行かせなきゃならない。もう一人養わなきゃならない小さいのもいるし」


「私はお金持ちだから、あなたのお父さんだって養えるよ」


商細蕊は今日この時、初めて程鳳台のすべてが自分のものだと感じることができた。この役に立たない坊ちゃんは、自分に完全に依存している。養うべき家族がいて、餌が運ばれてくるのを待っている。棒で叩かれたとしても、程鳳台にはほかに行くところはない!このことを認識すると、商細蕊の心はしっかりと落ち着いた。


彼の胸は甘い蜜で満たされ、膨らんで大きな球になり、体中の穴から蜜が溢れ出てくる気がした。口の中はもう甘い味がした。体のどこにも満足のない場所はなく、喜びのない場所もなかった。この日から、程鳳台は商細蕊の心の別の場所を占めるようになった。彼は一人の人をこんなに愛したことはなかった。


商細蕊は程鳳台の下になって、首に腕をまわして言った。「本当に、二旦那、あなたの体の下には大金庫が眠っているんだよ。私たちの一生に十分だ。これからは、ちゃんと私について来て!」




91章

 久しぶりに帰ってきた程鳳台が眠った後、葛さんが、車に残っていた程鳳台のコートやスカーフを渡しに来た。二奶奶はしばらくぼんやりしたあと、コートを膝に置いてゆっくりとポケットをさぐり始めた。そんなことは今までしたことはなかった。


大したものは入っていなかった。畳んだハンカチ、財布、ライターに煙草、いくつかの電話番号を書いたメモ、べっ甲の櫛。

財布を開いて中身を見た。入っている金額の少なさに二奶奶は微笑んだ。それから内側の、紙幣とは別のポケットに、紙片が丁寧に差し込まれているのを見つけ、それを取り出した。


写真だった。


それを見て、彼女は驚いた。あのとき、舞台は遠く、京劇の化粧は華やかで、彼の本当の顔は分からなかった。しかし、彼女は一目でこれが商細蕊だと分かった。

小さな男の子のような目。悪い心など微塵もないかのようにきれいに笑っている。教育を受けた良家の子息みたいだ。


もちろんこれは、この役者の下手な偽装だ。二奶奶はそれを一目で見抜いて、驚きと怒りを抱えてまっすぐ四姨太太の部屋へ行った。

(四姨太太は程鳳台の父親の四番目の側室。商細蕊の舞台を一緒に見に行った)


四姨太太は「まあ、これは二旦那と誰?きれいね!」と言ったが、真実を知ると衝撃を受け、ハンカチで口を覆って声をあげた。

浮気の記念に写真を撮るなんて、なんと傲慢なことか。しかし、これがこの世のありようだ。男に対しては寛容で、商細蕊のような半男半女の慰みものでさえ、人の口を恐れず昼間から情夫の手を握って堂々としている。そう思うと、なんだか少し悔しくなった。


四姨太太はふと写真を裏返し、「あら、ここに何か書いてあるわ」と言った。字を読んで、思わず緊張して二奶奶をちらと見たが、何も言えなかった。


「何が書いてあるの?言って」


四姨太太は静かにその文字を読んだ。


「伉俪って何?」と二奶奶は聞いた。


四姨太太は彼女の顔を見て、ためらいながら言った。

「伉俪っていうのは文語で夫婦のことよ」


二奶奶は長い間、呆然として言葉が出なかった。程鳳台に対する不満が瞬く間に商細蕊に移り、写真を指差して冷笑した。「男役者のくせに、二旦那と夫婦になりたいの?なんて恥知らずな!お前は夢を見てるのよ」




90章

 家に帰る車の中でずっと、商細蕊は程鳳台の手を固く握って、一言も話さなかった。程鳳台もあえて尋ねなかった。锣鼓巷に着いても、商細蕊は動かず、車から降りず、話もせず、目はまっすぐ前を見ていた。こんなに寒いのに、商細蕊の手は汗ばんでいた。程鳳台は足がかじかむまで座っていて、それから「家に入ろう。な?」と言った。


商細蕊の睫毛が驚いたように突然跳ね、指先が震えた。商細蕊は今とても弱っていて、悔しくて、心が砕けていた。大人にいじめられた小さな孤児だった。程鳳台はひどく心が痛んで、長いこと額にキスして、やっと車から降ろすことができた。商細蕊は部屋に入ると、死人のようにベッドに横たわった。


いずれにせよ今日は家に帰ることはできない。程鳳台は上着を脱いでベッドに入ると、商細蕊を抱きしめてやさしく囁いた。「商老板、どうしたんだ?少し話そう」

商細蕊はきつく眉根を寄せて、一言も言わない。程鳳台は彼が殴られたのではないかと心配になり、彼の肩と背中をそっとさすった。商細蕊は程鳳台の肩を枕にして、黙っていた。


突然、深い息をつき、起き上がって程鳳台に馬乗りになった。夜の星のように燃える目で彼を見下ろした。


危険に気づかず、程鳳台は商細蕊の頭の後ろを叩いてやさしく言った。「ちゃんと寝て。布団に風が入る」


商細蕊は程鳳台を突然うつ伏せにひっくり返し、本人が気づくより早くズボンを下ろした。程鳳台の手首をつかみ、自分の半分硬く半分柔らかいものを彼の尻の間に当てて何度か無理矢理に突き、もう片方の腕を背中に強く押しつけた。程鳳台は頭が爆発しそうだった。なぜ一瞬の間におとなしいウサギが狂った驢馬になったのか分からない。少しも準備ができていない。まったくの不意打ちだった。100キロもある大男にのしかかられているように、程鳳台は喘ぎ、威嚇の言葉をいくつか口にしたが、商細蕊の耳には届かなかった。


商細蕊が今欲情するなどありえない。彼はただ、心にある天を衝くような怒りを発散させたいだけだった。そして近くにいる誰か、親しい誰かが割を食わなくてはならなかった。


半分柔らかいものは擦られてやっと硬くなり、精を放って程鳳台の下半身を汚した。程鳳台はしょせん細い手足をしたお坊ちゃんで、いったん商細蕊に関節を押さえられてしまうと、まったく抵抗できなかった。無駄にもがき、その力はすべて商細蕊によって溶かされた。


商細蕊は荒い息をしながら、程鳳台の耳に口を近づけた。それは狼が土の中の食べ物を探しているかのようだった。程鳳台のシャツの襟を歯で少し裂いた。首を噛んでもおかまいなしだっただろう。


しかし程鳳台は大嵐を乗り越えてきた人間だった。戦うことはできなくても、彼はすばやく平静を取り戻し、低い冷たい声で言った。「商老板、君は面白くないんだろう。しばらく君の話し相手をしてやる。もし君が私を怒りのはけ口として扱うなら、私たちに次はない。冗談で言ってるんじゃないぞ」


何年か一緒にいて、程鳳台は商細蕊を扱うコツを知っていた。商細蕊は程鳳台が罵ったり殴ったりしても怖がらない。しかし程鳳台が顔をこわばらせ、見知らぬ人のように冷たい態度を取ると、彼は不安で怖くなる。


程鳳台の声を聞いて、狂った怒りの中で考えて、ゆっくりと動きを止めた。そこに固まって長い間躊躇して、それから悲鳴のような泣き声を上げた。




89章

 姜会長に梨園会館に呼び出された商細蕊は、全国から集まった役者たちの前で吊し上げられる。

姜会長はどこからか手に入れた「趙飛燕」の薄く肌の透ける衣装を持ち出し、あれは淫劇で、梨園の伝統を傷つけたと言う。商細蕊は反論するが、聞き入れられず、師祖の前で跪いて謝罪しろと言われる。


(このへんは大体ドラマと同じ。違うのは二旦那が一緒に来て外で待っていることと、李天瑤という役者が出てくること。七坊ちゃんは自分の言いたいことだけ言ってさっさと帰ってしまった。)

(いじめはドラマより執拗。ちなみに姜会長は「姜老爷子」で、会長なのかよくわからなかったけど会長って書いておく)



ここで謝罪すれば面目を失い、これまでの新しい芝居をすべて否定することになる。戦えば戦ったで多くを失う。商細蕊はどうしようもなく、立ち尽くしていた。


中には商細蕊の味方をしようとした者もいたが、恫喝され、みんな会長を恐れて口を開かなくなった。商細蕊の親しい友人や、趙飛燕の舞台に花篭を送ってくれた人、客席から「好!」と声をかけてくれた人も、敢えて姜会長に逆らうことはしない。商細蕊は梨園の情の薄さをひしひしと感じる。


商細蕊が譲らないのにしびれを切らし、四喜儿が「面子にこだわって、死んでも過ちを認めないつもりですよ。頑固なロバは押さえつけて叩頭させればいいんです」と言い出す。姜会長の弟子たちが商細蕊を取り囲む。商細蕊は身構える。



程鳳台は外に停めた車の中でイライラしながら待っていた。杜七が去ってから2時間以上、出てくる者も入っていく者もいない。中で何が起こっていようと、入って行って商細蕊を連れ出そうとも思ったが、梨園のことを知らない自分がそんなことをしてもいいものかと悩む。


そこへ、会館を抜け出して来た李天瑤という役者が、程鳳台を見つけて声をかける。


「あなた、程の二旦那?商老板を待っているんですか?」


程鳳台がうなずくと、

「早く行って。ウソをついて商老板を連れ出すんです。今回彼は大負けしますよ」と言った。

それを聞くなり、程鳳台は李天瑤の名前も聞かずに飛び出して行った。


程鳳台はニ道門に入るところで商細蕊が「このクソが!!」と叫ぶのを聞いた。間に合わなかったと思いながらとにかく走って、ドアを開けるか開けないうちに「商老板、もう時間だ!迎えに来たよ!」と叫んだ。


商細蕊は振り向いた。彼の目を見れば、何を言う必要もなく、彼がどれほど悔しい目に遭ったか分かった。この子どもの頑固で悲しい二つの目は、赤くなって、少し光っていた。

満場の役者たちが座ってヒソヒソ話している中、彼はただひとりで立っていた。


程鳳台は心が動き、躊躇なく彼の腕を掴んだ。商細蕊は体が固まっていて、程鳳台に引きずられ、半歩歩いて、よろめいた。

程鳳台の腕にもたれる格好になり、片手がコートの襟の中に入って、まるで女性が甘えているようだった。

四喜儿は嗤って「程の二旦那は心が疼くのね。商老板は人を疼かせる方法をよく知ってるから」


四喜儿が言い終わるが早いか、商細蕊は程鳳台の懐から金鎖のついた重い懐中時計を引っ張り出し、歯を食いしばって四喜儿の顔に投げつけた。四喜儿は悲鳴を上げ、顔を覆って地面に倒れた。





86章

 黄という顔なじみの記者が商細蕊の家へ来て、少しインタビューした後、写真を撮らせて欲しいと言った。ちょうど程鳳台も一緒にいたので、二人で撮ってもらうことにした。一緒に服を選び、遊びながらいろいろなポーズで写真を撮った。


後日、黄記者はフィルムを現像しながら、商細蕊に渡す写真を1枚選んだ。


その写真の中で、程鳳台は片腕を曲げて庭の梅の木にもたれかかり、商細蕊は程鳳台に少し重なる形で彼の前に立って、腕を後ろに伸ばして程鳳台の手を握っていた。程鳳台は警戒心のない笑を浮かべ、商細蕊は口をすぼめて明るく笑っていた。まるで口の中にこっそり飴を入れていて、口を開けば落ちてしまう、口を閉じていても甘さは隠せない。そんな嬉しさに満ちていた。


二人の男は見た目は普通にハンサムだったが、それぞれの艶っぽい態度が写真から滲み出ていた。黄記者はこの写真を撮った時には、その特別さに気がつかなかった。しかし今は、この写真から目が離せなかった。配置もよく、光と影が散りばめられて、まるで水彩画のようだった。彼はこの写真を2枚プリントして封筒に入れ、商細蕊に渡した。


程鳳台は商細蕊から受け取った写真を見て賞賛の笑い声をあげた。商細蕊はふと思いついて、写真を裏返し、メモを書いた。商細蕊の文字を知っている程鳳台は、これでせっかくのいい写真も台無しだと思ったが、止める隙もなかった。

字が書けない人ほど、書く時緊張するものだ。商細蕊は指先が白くなるほどきつくペンを握り、震えながら4つの大きな文字を書いた。


百年好合。(生涯のよき伴侶)


これは題字。そして行を変えて、「商郎、伉俪を携え、宅内の白梅の下にて撮影す」と書いた。


程鳳台は怒って、「なぜ、私は名前さえないんだ!」と言った。

「あるよ!」と商細蕊は「伉俪(夫婦)」の文字を指差して言った。「これがあなただ」





87章-5

 曹家を出た程鳳台は、その足で商細蕊の家へ向かった。門を叩くと、小来はもう起きていて、中へ入れてくれた。


本来の程鳳台の気質なら、ここで家具のひとつふたつ壊してこの役者を怖がらせてやるところだが、曹司令官との密談の後では、心境はすでに同じではなかった。嫉妬など些細なことだった。

程鳳台はコートを脱いで商細蕊のベッドに入り、後ろから彼を抱きしめた。商細蕊は目を閉じていてもそれが誰か分かっていて、「殺してやる」と言った。


程鳳台は唇を彼の首に近づけた。言いたいことは山ほどあったが、商細蕊に何か言うのは、海に小石を投げ入れるようなもので、音も聞こえない。程鳳台はよく考えて、「商老板、私は君が酒を飲んで人とつきあうのは嬉しくない」とだけ言った。


商細蕊は眠そうに「あなただって毎日飲んで人とつきあってるだろ」と言った。


商細蕊はこの商売が長く、尊厳というものについてぼんやりした感覚しかない。程鳳台は微笑んで、「もし私が引っ張られたり掴まれたりするのを見たら、うれしい?」と聞いた。


商細蕊はよく考えて言った。「うーん、煩わしいけど、役者はみんなそんなふうにして暮らしてる。どうしろって言うんだ」


程鳳台は彼を少し強く抱きしめて、探りを入れてみた。「そうだな…簡単だ。芝居をやめればいい」これは自分でもバカバカしく聞こえた。


思った通り、商細蕊は口を開いて「クソだな!」と言った。それからうっとうしそうに「あなたが初めて私に会った日も、私はこんな風に暮らしてた。あの時は何も言わなかったのに、今日になって不満を言ったって、遅すぎる!」


後ろめたい気持ちがないわけではなかった。しかし後ろめたくなればなるほど、堂々としていなくてはと思って大声になった。すると程鳳台の気分も荒れて、「うるさい!話にならない。あっちへ行け!」と、暖かい腕の中から冷たいマットレスの上へ商細蕊を追い出した。


それからしばらく布団を取り合ったが、結局最後にはまた二人で布団に潜り込んで暖め合うことになった。


程鳳台は彼を抱きしめて、心から言った。

「私は君を主に大切に思ってる。君が敬意を払われずにいるのを見ると心が痛むんだ」


商細蕊は目を閉じて言った。「主に嫉妬してるんだろ。私は心が痛んだりしない。私の代わりに何を騒いでる?彼らは私を弄ぶだろうが、こっちだって本気にはしてない。手でどこを引っ張ったって、肉を取られるわけじゃない。順子(犬)が私の口を舐めたとき、あなたは文句を言わなかったじゃないか」


そして少し黙ったあと、ひとつの事実を言った。

「私はあなたを手に入れてから、こっそり他の人と過ごしたことはない。それでも不満なのか」


この歪んで透き通った一片の哲学はちょっと見たところ完璧で満足のいくものだった。程鳳台があれこれ考えてようやく不満を見つけた時には、商細蕊はもう眠っていた。